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2008年6月11日発行
 
わが同胞(はらから)の心象 葬送記(25)
金両基
 
 
花郎 官昌の死 新羅をふるいたたせた美少年 
“恨”にとらわれぬ三韓時代の人々
わが子の首」を手に…

 明確な目的があったとき、人の心は燃える。純粋な少年たちの心が燃えて時代を変えた実話は多い。

「晋州剣舞」女性が戦笠を被り、武人の衣装を着て両手に剣を持って舞う。重要無形文化財第12号
 

 近くは、李承晩政権の崩壊をもたらした1960年の4・19(学生)革命、古くは新羅が三国統一を実現する7世紀後半、両者とも純粋な少年の燃える心と生と死が深く投影されている。社会正義に燃えていた馬山の中学生、金朱烈の屍体が発見され、それが契機になって4・19(学生)革命へと広がり、市民を動かし、独裁政権と言われていた李承晩政権が倒れた。
 新羅と百済の戦で、16歳の少年であった官昌(クァンチャン、黄昌ともいう)は死を恐れず百済を攻め、敵将の階伯将軍に討たれる。その勇気と忠誠に味方の新羅は奮い立ち、敵の百済は勢いの差を感じる。その少年が属している集団の頭を花郎(ファラン)といい、その集団を花郎徒と呼び、官昌はその一人である。
 無形文化財に指定されている「晋州剣舞(チンジェクオンム)」(写真)は、官昌の戦死を偲んで舞い踊った追悼の仮面舞踊だったと伝えられている。当初は官昌の面貌を象った仮面を被り、勇壮な剣舞を舞ったようであるが、時代とともに変化し、仮面はとれ、剣は柄のところで回転する短剣に変わり、遊芸界の妓生(キーセン、芸妓)が舞うようになった。
 美少年から選ばれた花郎は平素女装をしていたことから、のちに妓生たちが舞うようになったのであろう。由来を記した『三国史記』(列伝第7)の官昌のくだりから往事を偲んでみよう。

 新羅の将軍品日の子である官昌は官状ともいい、身なりは優雅で、少年のとき花郎に選ばれ、ひととの交わりも上手く、16歳で騎馬や弓術にも長けていたので、ある大監(テカム、上位の官職)が太宗大王にかれを推挙した。
 武烈王7年(660)、武烈王が唐の軍勢とともに百済へ兵を進めたとき官昌を副将に任じた。
 黄山(現在の論山界隈)の原野で新羅と百済の両軍が対峙したとき、官昌は父である品日将軍から「そちは年は若いといえど士気は高い。今日の戦いは名を上げる好機、勇気をふるうときである」と言われた。
 うなずくやいなや官昌は馬に飛び乗り槍を持って敵陣に突入し、数人を倒したが、多勢に無勢、捕らわれて百済の階伯元帥の前に連れ出された。階伯がかれの冑を脱がしてみるとまだあどけない少年であった。その勇気をいとおしみ殺すに忍びず、「新羅に奇士多し、少年にしてかくの如し、壮士においては言わずもがな」と嘆じて解き放った。
 帰陣した官昌は「敵陣に入りながら敵将を倒せなかったのは誠に残念。ふたたび敵陣に入ればかならずや倒します」と言い放ち、井戸水を掬って飲むやいなや敵陣めがけて突進し、奮戦したが力及ばず捕らわれた。階伯は官昌の首を斬り馬の鞍に繋いで送り返した。父の品日は子の首を手にとって袖で血を拭いながら「生きているようだ、国のために死す、悔いはない」といった。
 この光景をみていた三軍は悲憤慷慨、太鼓を打ち鳴らし、士気を鼓舞して敵陣に進撃し、百済は大敗。太宗大王は官昌に級?の位を追贈し、礼を尽くして葬った。

 このくだりは死を恐れぬ勇気と篤い愛国心を讃え、そして父子の愛を詠っている。
 百済の将軍階伯は敵ながらあっぱれな少年兵官昌の心意気を讃え、その首を落とす。敵も味方も官昌の死を惜しむが、そこには早世への恨(ハン)がない。
 ハンとは発散する術もなく、自力では解くことのできない辛さや悲しみをうちに潜ませ耐えている心情だが、この時代にはハンに囚われる心情はうかがえない。階伯が敵の恥辱を憂いて妻子を殺して戦場に向かい戦死する話は後日のテーマだが、そのくだりにもハンはうかがえない。不慮の事故などで起こる必然性がともなわない死やそれに相応する災難にあったとき、心奥にハンが湧き起こるようである。
 日本の植民地時代「ハン多き人生」ということばが歌や詩で頻繁に登場するようになり、人々が口遊んだ光景が目に浮かぶ。
 官昌は国のため、父のため、一族のために命をかけることに生き甲斐を感じる少年であった。儒教思想からみれば父に先立つ官昌の死は不孝になるが、この時代は儒教思想は機能していなかった。
 父の品日も子の戦死を想定して官昌に行動を促し、見事な戦死を遂げる。花郎とはそういう訓練を受けた少年集団、花郎徒の長であり、統一新羅の礎になった武烈(太宗)大王や金庚信将軍など、ほとんどのリーダーは花郎の出身であった。


武烈王(ぶれつおう、602年?―661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年?―661年)。姓は金、名は春秋。父は第25代真智王の子の伊?(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と呼ばれる)、母は第26代真平王の娘の天明夫人(後に文貞太后と呼ばれる)。武烈王の妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人であり、金庚信将軍の妹に当たる。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤をなしたことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称される。

 
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