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とどけ 太平洋の彼方へ
メーデーである。“ワーキング・プア”と呼ばれる人々が世界中にあふれていることを、ことさらに考える。
日本では、あの歌が、今年は聞こえるだろうかと、ふと思った。
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『聞け万国の労働者』が初めて歌われた日本初のメーデー(1920年、上野公園) |
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聞け万国の労働者
とどろきわたるメーデーの
示威者に起こる足どりと
未来をつぐる鬨(とき)の声
汝の部署を放棄せよ
汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は
社会の虚偽をうつものぞ
歌詞の格調の高さは言うまでもなく、私には働く人々の誇りと気高さをうったえようとする作詞者の心が伝わってくる。
街で歌を耳にしなくなってずいぶん経つ。今年も聞こえてくることはあるまい。今の若者は言葉と、言葉の持つ意味とを理解できず、国会議員のあらかたや、労働界のお偉方たちも、その精神を「共産主義のもの」と曲解し、時に顔をしかめる。
作詞は、当時池貝鉄工の従業員で社会運動家でもあった大場勇によったが、歌は左翼運動の盛んなおりに伝わったのではない。そんな時代が来る前の1920年(大正9年)5月2日(日曜日)、上野公園で開かれた日本初のメーデーでうたわれた。
現に、節は1911年(明治44年)に作られた軍歌『歩兵の本領』と同じものだった。「万朶(ばんだ)の桜か襟の色/花は吉野に嵐吹く/大和男子(やまとおのこ)と生まれなば/散兵線の花と散れ」という例の歌だ。
その日、会場には、ねんねこに赤ん坊をおぶった婦人、学生帽を目深にかぶる若者たち、きもののカフェの女給たちの姿もあったと伝えられる。決議されたのは、治安維持法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法設定の三つだった。
シベリア出兵と満州支配という時代を背景に、国内治安と軍事の莫大なツケとが人々の暮らしを覆い、主義者でもない人々、1万人余が上野に集まることになった。
「聞け万国の労働者」と歌声がひびきわたるとき、参集した人々は、その声が太平洋を越え、米国シカゴに達するのを感じたという。
1886年5月1日、米国シカゴの労働者は、8時間労働制を要求してゼネストを行った。会場には人権宣言の先駆をなす、「ヴァジニアの権利」宣言の標語が立ったと聞く。
シカゴ労働者たちの要求は通らず、人々は散々に打ち据えられたという。だが、この精神は3年後、パリで開催された第2インターナショナルに受け継がれ、5月1日は、「万国労働者」の権利を謳う祭典となった。
『聞け万国の労働者』の3番の歌詞には、
永き搾取に悩みたる
無産の民よ 決起せよ…
とある。
88年後の今、無産の民はいなくなったのか。いなくなったように見える。新聞の片隅に目を凝らせば、それらしき人々の自覚なきうめきを発見することはできる。働く者の権利意識と世界への感性は喪失しつつあるのだろうか。
メーデー発祥の地シカゴと、人権宣言発祥の地パリからも、『インターナショナル』は聞こえてきそうにない。
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