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「新聞のかたきは新聞で」 文筆家としての第一歩に 金素雲は、不忍池のほとりで新聞売りを始めた。1921年。13歳だった。回想録『天の涯に生きるとも』(講談社学術文庫)によれば、彼の持ち場は「正面に不忍池を見わたす位置」だったという。新聞売りには絶好の場所とも記されているから、西郷さんの銅像を左に見て、階段をおりたあたりだったのではないだろうか。
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西郷隆盛像は1898(明治31)年に造られた。上野駅を見下ろす位置にあり、今も足下を往来する人々に親しまれている |
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売り子の仕事は、夜明けに卸業者から届く複数種の新聞を自分でたたむことから始まる。そのころはまだ、新聞を自動的に折る機械がなかったため、売り子がこの工程も担当しなければならなかったらしい。そうやって準備した新聞を公園まで運び、種類別に分け、石油箱を並べた台の上に載せ、座って売るのだ。
真冬のある朝、素雲の屋台の前を、修学旅行帰りの中学生の一団が通りかかった。上野駅近くならではの光景である。しかし雨が降ったあとで地面がぬかるんでいたため、元気な若者たちの足は盛大に泥をはねかえし、素雲の新聞は台無しになってしまう。
どこの中学かははっきりしていたので、素雲はダメになった新聞を抱えて中学をたずね、教務主任に談判を申し込んだ。しかし教務主任の答えは「うちの生徒のしわざだという証拠はない」というものだった。
おさまらない素雲は、このてんまつを新聞に投書することを思い立つ。ほどなく「都新聞」に、「新聞売子から乱暴な富者の子へ」と題した一文が載った。以下、その文章から抜粋する。
「私は新聞売りに依つて苦学して居る者です。苦学生と云へば皆様が御想像なさるよりはるかにつらい耐へ難い物です。貧しい為につらい事や腹立つ事や凡ての無理を皆忍び堪へねばなりません」
このあと、中学生が新聞に泥をかけて通り過ぎたことを「我等に取つては可なりの損害」と書き、「乱暴な彼等、どんなに富める者にせよ彼等の洋服は拾つて来たのではなかろうに、ああして自分で付た泥を彼等の母は―姉は―丁寧に洗つて彼等に着せるのだらう││私はそんな事をつぶやき乍ら泥のはねた新聞を片付けました」と結んだ。
署名は「下谷KYF生」。このイニシャルは素雲の幼名にちなんだものだという。
時代はおりから、2年前の米騒動で点火された民衆からの異議申し立てが渦巻き、騒然たる様相を呈していた。素雲が来日した20年には、同じ上野公園で第1回メーデーが開催されている。一方では、さまざまな産業博覧会が公園内で開かれる。音楽学校や美術学校には芸術家の卵が集まり、また、動物園や博物館でレジャーを楽しむ習慣も定着しつつあった。
あらゆる階級が上野を目指し、新しい産業と思想と理想が人々の心をとらえていた。若者たちは自分自身のものといえる生を求めて、がむしゃらに、切実に歩いていた。その上野から発信された素雲の投書は、学生の世界にもくっきりと刻印された明暗を一筆で描き出し、庶民の胸に切り込む力をもっていた。
「新聞のかたきは新聞で」。素雲がそう思ったのかどうかはわからない。だが、これこそ金素雲がはじめて活字にした文章であり、その後60年にも及んだ文筆生活の、原点だった。(つづく)
のぞえ ふみ(随筆家)
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