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東京スクランブル 1920〜 上野の巻 金素雲
上野のお山と、不忍池。江戸の昔から400年も続くこの名所に、今年も桜の季節がやってきた。
新幹線が東京駅まで開通し、「北の玄関」としての上野駅の役割が終わった今も、この界隈の空気には、いい意味での「古くささ」がかすかに残っている。
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大正11年(1922)の不忍池。平和記念東京博覧会が開催された(撮影・笠原知栄) |
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徳川最後の日には戦場として、明治以降は西欧文化の陳列場として、また立身出世の夢と挫折が行きかう交差点として。上野の山はそのゆるやかな裾野に、幾多の人びとの哀歓を抱き込んで今日に至っている。
思い描いてみたいのは、大正末期の上野山下のある朝の光景だ。
時は1921年(大正10)、季節は2月、東京の底冷えが容赦なく身に沁みるころ。鈴木時計店の高くそびえる時計塔や松坂屋ビルディングを横目に広小路を行けば、行く手に見えてくる上野の森は、冬枯れの茶色だ。
国鉄上野駅舎はこの当時、コンクリートではなくまだ赤煉瓦。路面電車の上野山下駅前を、店員たちをはじめとする勤め人たちが、かじかむ手に白い息を吐きかけながら行きすぎる。そして冴え冴えとした冬の空気の中、公園の一角、不忍池を見わたせる位置に、一人の少年が腰をおろしている。
この子は海を越えて、学問を志して日本にやってきた。だが、お金はない。そのため早朝から新聞を売り、午後から開成中等学校に通うのである。このときまだ13歳。だが、幼い面立ちには一すじの覇気が宿っている。
彼の名前は金素雲。1908年釜山生まれ、のちに岩波文庫のロングセラー『朝鮮童謡選』『朝鮮民謡選』『朝鮮詩集』の名訳を残し、北原白秋に絶賛された。戦前戦後にわたり、日韓の架け橋としてすぐれた仕事をした文人だ。
13歳とはいえ、彼はそれまでにも人並み以上の波乱を経験していた。
まだ乳飲み児のころ、役人だった父は「親日派」と目されて暗殺された。ほどなく母はロシアに出奔。素雲は釜山に近い絶影島の叔父のもとで少年時代をすごした。
この叔父は、少々誇大妄想ぎみの英雄主義者だった。片や素雲は、8歳にしてベトナムの民族英雄ファン・ボイチャウの『越南亡国史』を読み、涙したという神童。叔父は、この聡明な甥を救国のメシアに仕立て上げることを使命と考えたらしい。それに応えた素雲は、ビスマルクとナポレオンを崇拝し、海にむかって演説の練習をしたという。
民族主義的な「絶影島少年団」という団体を結成し、70名の少年少女を束ねる団長になったのがまだ12歳のとき。しかし、3・1独立運動の余波で少年団は強制解散させられ、素雲は石炭船に乗って日本を目指した。1920年のことだった。
上陸した大阪には伯母がいた。だが彼は翌年、彼女の援助をことわって、たった一人で上京した。以後、関東大震災の起きた23年までの2年間、「ありとあらゆる職業を経験した」という。上野公園での新聞売りはその中でも、比較的長く続いた仕事であったらしい…。(つづく)
のぞえ ふみ(随筆家)
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