| 東京・香港・ジュネーブ 「貿易」は隠れミノ?
保安司令部の影
アメリカ兵としてベトナム戦争に駆りだされていたキム・ジンスが、ベ平連の非合法組織ともいうべきジャテックの助けを借りてスウェーデンへ脱出したのに、在籍していたストックホルム大学では満足に教室へもでていなかったことは、前回も触れたとおりである。大学で学ぶのが厭なら働くとかするべきであったろうが、すでに紹介したC教授やパク・ワジャさんの話からもそれをうかがわせるものはなかった。
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1970年代の香港。キム・ジンスはここで貿易に従事していたというが |
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スウェーデンの大学では、高校を卒業してすぐに進学する学生もいたけれど、社会人として何年間か働いてから学ぶ必要に迫られて大学へ進学するケースも少なくなかった。ところが彼は、せっかく在籍した大学からいつの間にか姿を消していたそうだから、そうした意欲さえなかったということだろう。
C教授も中身は朝鮮人、パク・ワジャさんも中身は韓国人だから、図らずも異境の地でめぐり会った同胞として、年長の先輩たちに親近感をもって個人的な身の上相談に乗ってもらってもよかっただろうに、あいにくC教授やパクさんの話からは、そうした事実があったとは認められなかった。いわば彼は、孤立無援の状態にあったのである。
だとしたら、彼は何のためにベ平連いやジャテックの助けを借りてはるばる北欧のスウェーデンまで脱走せねばならなかったのだろうか。さらに言えば、ストックホルムから姿を消して以後、彼はどこで何をしていたのだろうか。
ベトナム派遣アメリカ兵でありそのアメリカ軍からの脱走兵でもあったから、ストックホルムから姿を消した彼がいったんアメリカへ帰ったということはとても考えられない。
脱走兵問題と関連してべ平連関係者の何人かは、彼らの名前がCIAのブラックリストに載ったという噂まであったほどだし。ふたたび日本に姿を現したキム・ジンスを、かつてのべ平連もしくはジャテック関係者が冷淡にあしらったのも、いまにして思えばその辺のことへの疑惑が原因だったのかもしれない。
キム・ジンスは時たま東京へやって来る前触れとして、「いま香港にいる。これから成田へ向かうから」といって、何時頃どこそこのホテルのロビーで会いたいという電話をかけてくることがあった。
そこで、指定されたホテルのロビーで会った折に問いただしたことがある。香港へは何をしに行ったのかと。すると、貿易をしているというではないか。むろん、どこを根城に何の貿易をしているのかも訊いてみた。彼はジュネーブにあるというオフィスの電話番号を教えてくれたが、貿易の内容については固く口を閉ざした。貿易業となるとそれなりの資金が必要なはずだが、それをどこで工面したのかを訊ねても笑うばかりであった。
ジュネーブから来たにせよ香港から来たにせよ、とにかく彼は遠路はるばるわたしに会うために東京へやってきて高級ホテルを泊まり歩いたわけだが、会ってからの話題は、初めのうちはもっぱら日本と韓国の古代や中世の文化関係史に関することであった。
どこでどんな本を読んで知識を仕入れてくるのか、いろいろと質問をしてくることにこちらから説明する形式で時間を過ごした。けれども、やがて韓国に生きているはずの親兄弟に会いたいと言いだした。
この問題は十分に、わたしの同情を惹くに値した。が、実際には雲をつかむような話であった。
80年代の半ばに韓国へ行った折に、知人たちに訊いてみたこともある。「入養児」が実の親を探しだした例はあるのか、探しだすにはどんな方法があるのかと。そして、個人の力ではとうてい無理なことを思い知った。
それがキム・ジンスと東京で会った最後の機会だったと思うが、やはりニューオータニ・ホテルのラウンジで彼に、肉親を探しだすことが難しい事情を知らせてやった。
別れ際に、彼は東京から中国へ入るつもりだと語った。そしてピョンヤンへも行ってみたいと。
アメリカ国籍の一市民である彼が、中国へ行くことを妨げる問題があるとは思えなかった。だが、ピョンヤンへすんなりと入れるのかどうかの判断はつかなかったので、女優の崔銀姫と映画監督申相玉夫妻の例もあることだし、くれぐれも気をつけるように忠告して別れた。
それきり彼からは、いまだに音沙汰がない。ところがある年の夏に、ソウルの世宗ホテルに投宿していたときのこと、二人の見知らぬ男が訪ねてきた。
彼らはわたしに、キム・ジンスとどんな関係があるかを、根ほり葉ほりするではないか。一種の尋問であったが、相手は何者かを名乗らないので、それほど深刻には考えなかった。
ところが、後で知人が教えてくれた相手の素性は略称「保安司」、陸軍保安司令部という怖いお役所の係官だとのことであった。たとえそれがどんなに怖いお役所であれ、後ろ暗いところがあるわけではなかった。
だが、彼のその後のことはやはり気になっていた。そこであるときストックホルムからの帰路、たまたまジュネーブで飛行機を乗り継ぐことになった機会に、教えられていた番号に空港ロビーから電話をかけてみた。
確かにベルは鳴った。ところが、いつまで経っても受話器を取る者はいなかった。
このときのベルの音はいまも耳朶
に残っている。(この項終わり)
アン・ウシク(桜美林大学名誉教授)
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