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2008年3月19日発行
 

延辺情話 第4部 −4− 「征途」華北から満州へ

 

「消極抗日 積極滅共」 蒋介石に背を向けた青年たち

 「われわれ朝鮮人はみんなやられるだろう。われわれはあまりに熱狂的で、何事につけても犠牲を覚悟している。第一線に向かって進むことを知るのみで、退いて己れを救うことを知らぬ」
 『アリランの歌』でキム・サンは広州蜂起で共に戦った楊達夫の言葉を伝えている。楊達夫は死んだ。

現在の中山大学。1920年代から30年代にかけて多くの朝鮮人独立運動家を輩出した
 
   

 第一線で戦った150人あまりの朝鮮人のうち、わずかに生き残ったものの中には、キム・サンのほか、楊林、全光、金奎光、朴健雄、崔庸健らがいる。いずれも、その後、中国共産党史に大きな足跡を残した。
 楊林は、「二万五千里長征」に加わり、その後、紅軍75師参謀長として黄河渡河作戦を指揮し、そのさなかに戦死した。
 全光は、呉成崙の名で知られる。広州蜂起にもこの名で参加した。敵の国民党広東軍、張発奎の司令部に向かって突撃する一隊にいた。
 元々東北を活動舞台にしていた全光は、コミューン崩壊後、満州に戻り、東北抗日連軍(中共満州省委員会の下に結成された朝鮮人、中国人の連合部隊)で、7000人全員が朝鮮人の第2軍政治部主任をつとめた。
 「政治部主任」は、軍内で部隊を政治的に統括する責任者で、党から最も信任された人材が就く。
 ついでながら、全光の配下のひとりに金日成がいて、戦後、スターリンの命をうけ、北部朝鮮で金日成を擁立し、金日成の苦境を救ったのが崔庸健だった。崔庸健を知る人々は、「大人(たいじん)」の風情であったとおしなべて語っている。
 広州蜂起には、黄埔軍官学校特務営2連隊長兼教官として参加した。広州蜂起失敗後の1929年、満州に行き、抗日連軍の第7軍副軍長に就いた。金日成のずっと上級だった。その彼が戦後、金日成の後塵を拝することになった。「解放朝鮮史」の謎の一つである。
◇   ◇
 彼らは、朝鮮共産党が潰滅する(1928年)のと前後して中共に入党したが、広州蜂起後、中共の指導下に入る若者が多く生まれた。蒋介石と彼の国民党を、「消極抗日 積極滅共」の一統と見なしたからだった。
 キム・サンは「朝鮮のことを思うと、私たちの心は明日に向かっておどった。この戦いはわが故国の人々を守る戦いであると私たちには感じられた」と語った。
 「消極抗日」の蒋介石党に背を向けた時、人々が熱い眼差しを向けたのは毛沢東率いる抗日軍だった。彼らにとっては、中国共産党への参加は、朝鮮解放への一里塚であった。
◇   ◇
 李華林もそうした列に加わっていく。
 1932年秋、廖仲ト農業学校に入った李華林であったが、すぐに中山大学へと移る。中山大学には医学院があり、その付属病院の研修看護生となった。
 「私たちもいずれ日本軍と正面から戦う時期が来ます。その時になったら私に何ができるのかと思いました。兵士となって前線で銃を取りたかったのですが、小柄な自分を考えると、野戦看護婦になったほうがいいと判断したのです」
 中山大学には30人あまりの朝鮮人がいたという。広州蜂起失敗のあとであったから、熱烈な蒋介石支持者がいたのは当然だとしても、半数以上が、共産党シンパか、すでに党員となって送り込まれていた。
 李華林は、ある日、国民党員の中国人から、「朝鮮人は質が悪い。とくにアカだ。よその国で関係のない奴らがとんでもないことをしてくれた」と誹謗するのを聞いた。口惜しくてならなかった。そんなある日、中山大学の男子医学生に声をかけられた。青年は陳光華と名乗りながら言った。
 「あそこに井戸があるでしょう」
 青年は、「広州蜂起で先輩たちがいかに戦ったかを教えましょう」と、その井戸のほうへと李華林を誘った…。(文化部・仲田功)

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