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「中朝人民血誼亭」 潰えたコミューン 散った若者たち
広州コミューンというのがあった。毛沢東の言葉を借りれば、「アジアで初めてうち立てられた赤色都市政権」だった。
武装蜂起は、蒋介石のクーデター(27年4月)で「国共合作」が破られたことに端を発している。
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広州蜂起当時の人民政府 |
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中国共産党は反撃に転じ、同じ年、「南昌蜂起」(8月)、「秋収蜂起」(9月)に打って出、12月には広州全域を制圧、広州ソビエト政府の樹立に成功する。
蜂起を指導したのは中国共産党南方局広州委員会書記の張太雷、葉剣英らであったが、コミンテルンから派遣されていたドイツ人革命家ハインツ・ノイマンの意志が働いていた。ノイマンは、ドイツ革命下のベルリン、ロシア革命下のペトログラードに広州を見立てたといわれる。ノイマンは、広州に建てられた政府を、「東方のパリコミューン」と呼んだ。
蜂起参加者の中には、ソビエト領事館員らのロシア人たちがおり、さらに150人を超える朝鮮の若者たちがいた。
蜂起参加者リストに張志楽の名がある。『アリランの歌』の主人公キム・サンである。実は、押し寄せる国民党広東軍に対して第一線で立ち向かったのは朝鮮人たちであった。キム・サンの回想には中国革命に馳せた朝鮮人活動家たちの希望が語られている。
「1927年12月10日の暁は私の生涯で最も波乱に富む日の一つに数えられる。…私たちは始まろうとしている大衆闘争を思って喜びと期待に満ち、…獲得した権力をどうやって守るかについて語った。その後のわずかな時間のうちに誰かが殺されるかもしれないことについては語らず、ただいかにして敵をたおすかを語った。…朝鮮のことを思うと、私たちの心は明日に向かっておどった。この戦いはわが故国の人々を守る戦いであると私たちには感じられた」(『アリランの歌』ニム・ウェールズ、キム・サン著 松平いを訳 岩波文庫)
だが、コミューンは3日で潰えた。葉剣英は「敵は強く、私は弱かった」と総括した。彼は、北伐軍からの造反部隊を待たぬまま、労働者部隊と将校養成部隊だけで戦えるものかと、蜂起には慎重論を唱えたとされる。おそらく、都市革命に執念を燃やすコミンテルン―ノイマンの強硬論に広州委員会指導部は引きずられた。ノイマンは常々、「プロレタリアートは革命戦争を望んでいる」と言い、「プロレタリアが支配すべき都市を持たぬ革命は幻にすぎぬ」と主張していた。だが、ノイマンの「広州」こそが幻に終わった。
共産党は以後、都市蜂起をあきらめ、「農村から都市へ」の戦略に沿っていくのだが、コミューン崩壊後の惨劇は長く記憶に残った。張発奎率いる国民党広東軍の反攻は素早く、攻撃は惨烈をきわめた。張発奎は「捕縛の必要なし」と厳命した。蜂起が失敗に帰した14日から19日までの間に銃殺された人々は6000人近くに達した。
コミューンが崩壊する中、その張発奎の司令部と、沙河にあった砲兵隊陣地を攻撃したのが朝鮮人たちであった。ことごとく戦死した。
後に中国人民解放軍元帥となる葉剣英は蜂起の地、広州市紅花崗に記念碑を建て「中朝人民血誼亭」の碑文を寄せた。
在参加起義的革命兵士中朝鮮青年150余人、他們為中国戦友高挙義旗、併肩作戦。最期在沙河役堅条陣地、大部分英雄特性、表現不偉大的無産階級国際主義精神和大無畏的革命英雄気概。
コミューンは潰えたが、蒋介石は広州を把握できなかった。広州にはまだ蜂起の精神が中山大学に、黄埔軍校生の中に残っていた。李華林や多くの朝鮮の若者が広州へと思いを馳せる理由はあった。(文化部・仲田功)
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