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2008年3月5日発行 |
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風に舞う身世打令 信貴山の木霊(上) |
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| 墓石にそっと刻まれた故地
信貴山は在日韓国人の“聖地”になるだろうと言う人々がいる。なるほど、彼らの墓地がそこに多い。在日韓国人の間で、「信貴山」と言えば、墓所を指す以外の何物でもなくなるほどなのだ。ここを昨年夏、訪ねてみた。
正確には、信貴山にあるのではなく、信貴山と同じ山系の生駒山地のひとつ、高安山山中にある。
生駒山地は、生駒山を主峰とし、大阪、奈良の府県境に稜線を走らせており、その南西側の一角に高安山は位置する。
墓参に訪れる人々は近鉄線の信貴山口駅からケーブルカーで高安山に登る。終点の高安山駅からは南側の山道を分け入っていく。3メートル幅のつづらおりになった山道を30分ほど歩いていくと、いきなり、荒涼とした光景の墓域が眼前に現れる。
初めて訪れる人は驚かされるはずだ。深く刻まれた谷間の底から、急勾配をなす山肌にかけて、およそ2500基におよぶ墓がぎっしりと並んでいる。霊園の中で彼らの集中墓域の姿は、想像を絶していた。霊園と呼ぶには、あまりにも険しい場所にあった。
足を踏み入れても道はないにひとしい。一つひとつの墓の縁石をつたわなければ先へと進めない。山肌から谷間にかけて段々畑のような形状で墓は並んでいた。
およそ3時間をかけて一つひとつの墓碑銘を見て歩いた。「顕孝学生○○○○」とか、「顕妣孺人○○○○」とかと刻まれた墓が見られる。彼らの母国にあるような、土まんじゅうはつくるべくもないのだが、日本式の墓であっても、墓碑銘は儒式にのっとってそのように刻まれている。儒式でなければ、氏族発祥の地名を頭にして「金海金○○」「密陽朴○○」と刻んでいるのである。
しかし、通称であるのか、あるいはすでに本名となってしまったのか、日本名を墓碑銘にしたものが多い。むろん、この墓域に日本人の墓はなくはないのだが、明らかにそれらは韓国人のものだった。墓石の側面や後ろにそっと、自分たちが韓国人であり、あるいは韓国人であったことの証が残されているのである。墓石の裏に、故地の在処が記されてあるのを見た時、私の心は少し波を打った。
「代々の墓」と刻まれているのをいくつも見た。日本で、在日韓国人の「代々の墓」など本来あろうはずがない。しかし、そう刻まれた墓碑が増えている。「中山家代々の墓」「宮本家代々の墓」という風に。生前の故人との約束事であったのか。私は、彼らが「故地喪失者」たることを心に決めたのだなと思った。
山肌の東側ではブルドーザーが動き回っていた。斜面を切り崩し、谷底を広げ、さらに墓地が造成されようとしている。新たに刻まれる墓碑は、ほとんどが日本名となっていくのかもしれない。
実は、私の父もここに眠っている。今は自宅にある母の遺骨も間もなくここに運ばれるはずだ。
20年ぶりの墓参であった。墓は雑草で覆われていた。草むしりに骨が折れた。疲れもしてその場に腰を下ろした。いつの間にか日が暮れかかっていた。しばらく沈む夕日を眺めていた。と、夕暮れのひんやりとした谷間の風がときおり強く吹いて耳元で「ひゅー、ひゅー」と鳴った。よく聞けば、風の音だけではなかった。一定の抑揚をもった旋律が風の音にまぎれていた。とぎれとぎれに、もの悲しい調べと激しい調べが入り交じって聞こえた。
谷間のほうに目を凝らした。老女が墓の前でなにやら歌っている。どうやら「身世打令」のようだった。意味は聞き取れなかった。慟哭しているのはわかった。その声が宙に舞いながら私の耳に届けられていたのだった……。
編集委員 梁基述
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| わたしの徒然草 キム・ジンスのこと(3) |
ベトナム戦争から脱走して日本経由でスウェーデンのストックホルムへ脱出して行ったはずの元アメリカ兵キム・ジンスが、ふたたび東京にやってきて連絡してきた先は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ作家会議日本委員会の事務所であった。 |
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| 韓国国語事情・文章力 国力は語彙力
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| 韓国語書籍の日本語の翻訳を多く手がけた在日韓国人のK氏は「韓国人の文章力はあまりに低すぎる」と嘆き、怒りもしている。 |
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