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「征途」華北から満州へ たちゆかなくなった左右合作
【これまでの話】特攻の手を逃れ、平安南道から満州に入り、間島パルチザンの兄を探し求めた李華林。兄とはついに会えなかった。上海に渡り、金九と出会った。名を「李東海」と変えた。自分が朝鮮共産党員であることを隠さねばならないはめとなった。上海臨時政府は“右旋回”し、金九は蒋介石と共に「アカ狩り」に熱を上げていた。
李東海は、臨時政府と袂を分かち、再び満州への道のりを歩むことになるが、今一度、彼女が離れようとした上海臨時政府の事情について触れておきたい。
1910年に国権が喪失してからというもの、朝鮮の独立をもとめる政治組織、武装グループ、テロ集団は、ロシアと中国で無数に生まれた。何々党、何々派、何々団…。おぼえきれないほどである。それらは離合集散をくりかえし、生まれては消え、消えては生まれた。「彼らは千年も経った頃に団結するつもりなのだ」という皮肉はかねてあった。とりわけ、彼らと踵を接したロシアや中国の革命家たちは自分たちのことは棚上げして嘲笑したものである。
ロシアではボルシェビキ、メンシェビキ、エス・エルなど革命派どうしの血で血を洗う抗争があったし、中国では辛亥革命後、軍閥が旌生し、孫文死後はさらに国民党、共産党、奉天軍閥、汪精衛党といった乱立が生じた。革命期の党派対立はいずこもおなじようなものであったが、朝鮮人の場合、その頻度と数においてなお余人の目をそむかしめるものがあったということか。エストニアやフランスのインテリたちは、「それほど日本の弾圧が厳しく、たたかいは困難をきわめたのだ」と同情した。「朝鮮の運動は日本帝国主義の一見突き破りがたい鎧を針でこまかく刺す以上には出なかった」とは、イギリス人外交官エドワード・カーの観察であった。
孫文は「命運的亡国民」といった。
朝鮮亡国民のさだめとは、世界に散らばらざるを得なかったことであろうことを孫文は言おうとしていた。
安住の地を持てなかった。運動者たちは集結地をもとめてさまよった。広大なシベリアと満州で、えんえん何千キロもの行軍を続けながら、集まれば叩かれ、また散らばった。地理的な制約にくわえ他国の政治的制約を著しくうけた。早い話が、厄介視されたのだし、でなければ軍事的に政治的に利用された。ケレンスキー、レーニン、ジノビエフ、張作霖、そして後には、スターリン、蒋介石、毛沢東が、彼らをそのように遇した。政治のまじりもののない援助者は孫文ひとりであったと言っていい。
ユーラシア大陸の東半分のほぼ全域で、朝鮮の亡命活動家たちは、共産主義者も民族主義者も分散を余儀なくされ、いつしか、それぞれ各地政治勢力の影響を色濃くうけるようになっていた。
李東海が上海に足を踏み入れた30年代、満州の独立軍は虫の息にあった。ほぼ同時期に朝鮮共産党は潰滅していた。李東海が言うように、上海臨時政府は「独立運動を志す運動家たちの大本営」とならざるをえなかった。「ならざるをえなかった」というのは、運動人脈の複雑さ、内部対立の深刻さに辟易しながらも、これを維持せざるをえないという、朝鮮人活動家たちの事情によるのだが、この“大本営”をもってしても左右合作が立ちゆかぬと見たとき、李東海は31年秋、金九と韓国臨時政府、蒋介石と国民党に別れを告げる。
上海から華北へ、彼女は向かい、ついには再び満州に辿りつくこととなる。その長い道のりを彼女は「征途」と名付け、同名の一書を中国語で著した。彼女の「征途」は朝鮮人独立運動家たちの一典型であると言ってよかった。
彼女は、銃を望み、抗日戦を望んだ。それを叶えることができるのは、華北を根拠地に、八路軍と共に抗日軍の一翼を担う「朝鮮義勇軍」以外になかった。後に米国情報部が「延安派」と呼ぶ一団であった。
(文化部・仲田功)
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