| それぞれの理由
受け入れる事情 拒む立場
在日韓国・朝鮮人の日本国籍取得者の数が年間1万人を超えて12年。サンフランシスコ条約が発効した1952年以降の累計では、2006年末で30万人を超えている。95年に1万人を超えた日本国籍取得者数は以後、毎年9000―1万1000人に上った。日本国籍取得者一万人の時代。そして3世4世時代。それでも韓国・朝鮮籍を保持する韓国・朝鮮人特別永住者は40万人を超える。多くは50代以上の世代だ。在日韓国・朝鮮人社会は間違いなく変容をとげている。ある者は日本国籍を受け入れ、ある者は拒むー。在日韓国・朝鮮人の日本国籍取得事情を探った。
(社会部取材班/金総宰、金惠美、鄭重国)
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変わりゆく3・4世の生き方。在日社会の未来に何を描く? |
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◆生活の場は日本
吉野里香さん、26歳。 和歌山市に住む在日4世で、両親とも在日韓国人3世だ。
8年前、里香さんが18の時、家族全員で日本国籍を取得した。里香さんは昨年11月、日本人と結婚した。里香さんは言う。
「主に日本で生活しているし、今後も日本で生活していくことになるから」と。
家族が日本国籍を取得した理由だった。
日本国籍を取っても、就職や結婚でも特に問題はなかった。結婚式ではチョゴリも着た。日本国籍取得の手続きには半年から1年ほどかかったが、一人だったので、手続きにかかる費用は法務局での印紙代だけで済んだ。
日本国籍を取得したことのメリットやデメリットのようなものは特にはなく、変化もなかった。日本の選挙権を行使できるようになり、市議会や県議会選挙が行われる時は市役所から連絡がくる。
外国籍(韓国・朝鮮籍)を維持するかどうかは個人の自由だと思っている。
◆支障来たした国籍
Aさん、42歳。西宮市で韓国料理店を経営する在日韓国人3世。両親は在日2世。妻は朝鮮籍から韓国籍に切り替えた。娘が2人いる。
日本国籍を取得した主な理由は、外国籍だと子供が不便だと思ったからだ。女の子なので、将来好きな人ができて国籍だけの理由で結婚できなかったらかわいそうだと思った。逆に、子どもが男の子だったら日本国籍取得は考えなかったのかもしれない。
Aさんは、30歳の頃、仕事で米国に住んだ経験がある。人種のるつぼといわれる米国社会を体験して、コリアン系ジャパニーズという生き方がいいのではないかと思っていた。
一方、韓国に親戚はいてもつながりは薄れていた。韓国に一家の墓があるわけでなく、住んだこともなかった。
日本国籍取得は自分の意思で決めた。選挙権を得た。初めての投票の時、一票の意思が反映されていると感じ、意見が言えたといううれしさを覚えた。
日本国籍は取得しているが、本名で仕事や生活をしている。
◆韓国が嫌いなわけではない
Bさん、60代。
大阪の建国学校(高校までの韓国系学校)を出て、民団支部団長を経験した。
そんなBさんが国籍を変えた。子どもが日本国籍を取得しやすくするため家族で申請したのだそうだ。
Bさんは、民団に30年近くかかわった。
「どうしても日本国籍にしたかったわけではない。体に流れる血は韓国人ですから。だから、韓国が嫌いでそうしたわけでもない。子どもたちが日本国籍を取るというので、子どもたちが取りやすいように親の私が国籍を変えたということです」
Bさんはすっきりしたという。日本国籍を取得すると同時に、民団に顔を出さずに済むようになったからだ。支部団長時代はなにかと持ち出しが多く、毎月の負担も少なくなかった。
日本国籍を取得する時、民団には関わらないという条件で申請、許可を得たという。
「もう日本人になられたのですから、民団などに出たり、民族的な活動をしたりするのは自制してください」
法務局の担当役人の言葉だった。そう言われることに抵抗があったのかと、尋ねた。Bさんの返事はなかった。何か覚えるものがあったのかもしれない。固い表情が物語っている。しかし、法務局の言いつけを守るように、Bさんは支部団長を辞めたあとは民団に顔を出さなくなった。「日本国籍取得については何も言いたくない」。聞かれて周囲に答えている。
「在日のサンプル」見当たらなかった
伝わらない「民族の情熱」
木下礼子さん(OL・28歳)
◆米国留学経験でこだわり消えた
本名は「朴礼子」だったが、今は「木下礼子」が戸籍名だ。
28歳で大阪府八尾市出身。高校まで日本の学校を卒業。情報処理の専門学校を卒業後、アルバイトで貯めた資金で1年半ほど米国に語学留学した。
04年に上京。現在は東京でアパレル関係の会社で服飾デザインをしている。06年3月に一家全員で日本国籍を取得した。家族は2世の両親と弟1人。
実家の両親は金物工場を営んでいる。
家庭の中に「韓国」の色はあまりなかった。親戚は多い方だったが、チェサは行っていなかった。韓国には家族旅行で3回程しか行ったことがない。「在日」としての教育は、言語面でも生活面でも全く受けていない。
父も、在日2世である割には韓国籍にこだわりはなかった。
工場の従業員はみな日本人。取引先や取引銀行もすべて日本企業だった。1世の祖父母は、父がまだ若い頃に他界している。そのため身近に「在日のサンプル」が見当たらなかった。国籍にこだわらなくなった理由だと思っている。
周りも日本人の友人がほとんどだった。大阪という土地柄、学校では韓国籍の同級生もいた。親しくしていたのは彼らではなく、いつも日本人だった。
人づてに誘われ、在日韓国青年会のイベントに一度顔を出したことがある。
肌に合わなかった。青年会にいる人たちは「在日」であることを必要以上に意識しすぎているように感じた。アメリカに語学留学をしたことで、さらにそんな気持ちは強くなった。米国体験は、在日韓国人の民族意識を没個人主義のように感じさせるようになっていた。
父から日本国籍取得の話をされた時、家族の誰も反対しなかった。韓国人ではなくなるということにも抵抗はなかった。
「国籍は関係ない、自分は自分だから」と木下さんは言う。「自分」とは何かと自問してみた。
「韓国人として生きてきたことが自分であるとは思わない。絵を描くこと、本を読むこと、趣味でダンスを習っていること。長身で色黒。頑固だが涙もろく、平和主義。私だけが持つ個性が混ざって“自分”が成り立っている」
木下さんは思っている。
日本国籍を取得して良かったことも悪かったことも、特に感じないのだそうだ。選挙権を与えられたことに対する喜びなどもない。外登を持ち歩かなくて済むようにはなったが、カードの一枚で何かが変わった、自分を失った、とは思えないとも言う。だが、説明のつかないこともある。
「在日の人と会うと、どうしても自分も韓国人だったことを言わずにはいられない。単純に相手との共通点を見つけた嬉しさか、それとも同郷の人に対する親近感なのか、自分の過去に対する懐かしさなのか。それは自分でも整理がついていない」
礼子さんには日本人の婚約者がいる。ついでながら、相手も長期間の海外居住経験がある。
特例法求める動きも
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定住外国人の「国籍取得特例法の制定」を求める市民集会。「届出による日本国籍取得」と民族名使用の保障などを盛り込んだ決議文が採択された。(写真=05年2月10日、衆院会館で)
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100年の歴史 捨てていいのか
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発表会で民族芸能を演じる大阪・金剛学園小学生 |
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娘は戸籍ないまま育った 朴容福さん(自営業・55歳)
◆親の口惜しさ知って
「昔は、帰化問題が深刻な悩みだった。1世の親を裏切るか裏切らないかという切実な問題意識があった。親とどう向き合うか。帰化は2世の悩み、苦しみでもあった。帰化は今、選択の問題になっている」
東京・三鷹に住む市民運動家、朴容福さん(55)=自営業=は語る。日本人女性と結婚し、娘が生まれた。娘の朴姓を守るため戸籍法や行政と闘ってきた。
○ ○
60年代、70年代。
1世の背中を見て成長した2世たちは、民族性を隠して同化し、文字通り「帰化」する日本国籍化には強い拒否感を覚えた。
1世と2世の多くには祖国や民族への帰属意識が強かった。朝鮮半島を支配し深い傷を残した日本という国家への道義的な不信も抜きがたくあった。「帰化」はまさにそうした時代認識、日本認識への「裏切り」だった。そのような風潮が支配的だった。
1980年代初に、日本は国際人権条約や難民条約を批准し、85年には父母両系主義へ国籍法を改正した。
この間、在日韓国・朝鮮人社会も世代交代が進み、日本生まれの2世3世以降の世代が90%以上を占めるようになる。
在日韓国・朝鮮人と日本人の国際結婚の増加と日本の国籍法改正は、「国籍選択」による在日3世・4世の日本国籍化を促した。
朴容福さんは言う。
「85年の国籍法改正が決定的な意味を持った」
娘の日本姓を拒否した朴さんは、国際結婚で生まれた子どもに父親である自分の姓を名乗らせるよう求める。父親姓の子どもの出生届は受理してもらえなかった。子どもはあくまで母親の戸籍に入るから、というのが役所の言い分だった。子どもの姓を決める親の権利が侵害されていた。「家族の尊厳の問題だった」。子どもの国籍と姓は守ったが、子どもは戸籍のないまま育った。
今、朴さんは、国籍は子どもの選択に任せている。本名だけは名乗るようにと伝えている。
「私は変えない」
朴さんにとって国籍とは、日本とどう向き合うかの問題。日本国家のあり方を問う問題に等しい。日本に対しては批判的にならざるを得ない。
「在日は100年の歴史がある。日本で生活を続けてきた重さや価値がある。在日の未来を見つめ続ける」。朴さんの信念だ。
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在日韓国・朝鮮人と日本人の高齢者が入居する大阪府堺市の「故郷の家」
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器用にはなれないのだ 安景植さん(自営業・68歳)
◆1世の時代身をもって知った
東京で韓国料理店を営む安景植さんは、妻と4人の娘がいる。妻は韓国人。娘は日本人や欧米人と結婚。孫が6人いる。民団支部役員を経験した。東京朝鮮高校8期生だ。
先祖が日本にやってきて2世や3世がここにいる。永住するのはごく自然なことだと安さんは言う。今は、資本も人も国境のない時代だと考えると自然に居住地の国籍を取ってもいいと思っているが、しかし、と安さんは言う。
「われわれは植民地時代を、身をもって知っている世代だ。父母の時代を知っているし、自分自身、屈辱的な嫌な体験をしてきた。兄貴(朝鮮)の身体が優れないときに、それに乗じて打ち込むような弟(日本)はよくない。その敵国の家の旗を担ぐわけにはいかない。われわれには日本に住みながらもプライドがある」
○ ○
安さんは、韓国人社会はできるだけ長く、100年―200年単位で、社会グループとして在ってほしいと願っている。
「恩恵をこうむった兄貴の国を植民地化した日本というものを忘れさせないためにも、私たちは必要な存在だ。ある時は、そのグループが集まって、おれたちはここにいるぞということを示せるような生き方をしたい」
民族性を持ったグループが長く存続するために孫たちと同じ世代の子どもたちに言葉を教えている。
仲間と地元を中心に高齢者が集える場をつくっているのも、日本に住むようになった同胞の苦労に少しでも報いるべきだということからだ。同胞高齢者には日本の行政がしてくれる以上にプラスアルファのサービスをしてあげたい。民団支部の仕事はそれしかないと思っている。
◆誰にも「夢」必要 だから帰化しない
「生きるというのにも、何か希望を持って生きるというのが私の哲学だ。生ける屍になってはいけない。人間は夢、希望がなければいけない」
経営する韓国レストランを舞台に、パンソリなどが上演できるコリアンシアターをやりたいという夢を抱く。夢や事業を「在日」の民族性の維持と向上につなげていくのが安さんの生き方だ。
「だから自分は帰化しない。人間性は無理がきかないのだから」
安景植。68歳だが、在日2世だ。同じ2世でも、3世でも到底及ばない人生哲学と人間の迫力を持っている。どっこい安さんのような人も存在感をもって生きているのも、「帰化1万人」の時代の真実のひとつだ。
教育環境乏しい中の選択
国際結婚、子どもの国籍は
在日韓国・朝鮮人の日本人との国際結婚は韓国・朝鮮人の婚姻件数の8―9割に達する。3世4世は国際結婚のなかで生まれた子どもたちと言っていいほどだ。
日本も、国籍法の改正(1985)で国籍承継の父母両系主義採用に踏み切った。国際結婚の家庭では、子どもの韓国籍を留保しても、子どもは重国籍者として日本国籍を持つため、日本の行政上、この子どもたちは外国人登録の対象とはならない。そのため、この子どもたちは特別永住者などの在留外国人数には含まれない。特別永住者数の統計上の減少の要因といわれる。
日本も韓国も二重国籍を認めていない。国際結婚で生まれた子は20歳から22歳までに父母のいずれかの国籍を選択する。国際結婚した親から日本で生まれ、日本に育った子が韓国・朝鮮籍を選択する割合はきわめて低いといわれる。親の意思があっても、言語や風習など、成長過程に必要とされる民族的な環境が制約されていることが大きく影響している。「二十歳の選択」は在日韓国・朝鮮人の人口を左右する。
法務省の入管白書(『出入国管理』)は「今後もいわゆる在日3世・4世などの国籍選択をめぐる動向次第で、特別永住者の総数はさらに下降する可能性も考えられる」(2006年版)としている。
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