空挺隊はなぜ投入されたか
広がる学生デモ戒厳令は全国に
趙甲濟深層取材
空挺第11旅団の61大隊長だった安富雄氏は、1980年5月19日から光州で任務にあたっていた。
第11旅団は江原道・春川に本部がある。全斗煥戒厳司令官(当時)によって掌握された軍部は5月17日、全軍指揮官会議を開き、前年10月26日に起きた朴正煕大統領暗殺事件以後、布かれてきた非常戒厳令の対象地域を、済州島を含む全国に拡大することを決定した。
戒厳司令官は、直接大統領からのみ指揮を受けることになり、三権を統制するようになる。
学生デモの拡散を阻むことを理由に、5月18日午前0時、戒厳令の拡大が発表された。同時に、全斗煥戒が本部長を務める合同捜査本部は、金大中や金鍾泌ら政治家を連行し、さらに国会を封鎖、政治機能を停止させた。
学生デモは5月15日までに全国に広がる。デモ隊の要求のひとつは戒厳令の解除だった。軍は部隊を出動させ、地方の大学を占拠するという措置を取った。
大規模なデモが予想されたソウルと光州には、空挺旅団を中心に編成された強力な鎮圧部隊が投入された。新軍部は、空挺部隊などによる強硬鎮圧を決めていた。
新軍部で実務責任者の役割を果たした保安司令部の権正達情報処長(当時)は1996年、検察に次のように述べた。
「釜馬事態の鎮圧作戦を評価する過程で、デモの大規模な拡散を予防するためには初動段階で空挺部隊などを投入して強硬的な鎮圧を行うことが効率的という反省が出た。この教訓が、5月17日の非常戒厳令の拡散以降のデモ隊鎮圧作戦の基本方針に少なからぬ影響を及ぼしたと考える」
光州事態の直前に発生した釜馬事態で、空挺部隊の強硬策が成功したのは、デモの持続性がそれほどなかったことに加え、デモ隊が非常戒厳令によって最初から抵抗をあきらめていたからだ。
空挺部隊はこの時も、市民を無差別に殴打した。市民の反感はむしろ高まった。
1980年5月は違った。金泳三、金大中、金鍾泌の3金勢力が主導した「80年の春」に民主勢力が鼓舞され、学生や労働者は声高に政治的要求を叫んだ。
釜馬事態鎮圧が火種であったとすれば、光州事態は点火直前の火種を消す機会となったはすだ。だが、新軍部はこの点を見逃した。
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