| 済州みかん(2) 木を育て、人を育てて
在日韓国人によってみかん栽培が普及した済州島。目指したのは「貧困からの脱出」だった。
70年代初頭、「大学木」という造語ができた。みかん栽培をすれば子女を大学に送ることができるという意味だ。みかんは済州道民に経済的な豊かさをもたらした。
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今では、済州島の秋はみかんなしでは語れない |
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みかんが貧困からの脱出の希望になったのは、60年代の末からだ。六七年、済州のみかん生産高は3400トン、純利益は5億4000万ウォンだった。1人当たりの年間所得(66年推計)は2万8684ウォンになった。
済州は、韓国銀行が年に一度発表する所得推計で、毎年最下位だったが、この年、全国3位の高所得地域に変貌した。
みかん農家の所得は増加の一途をたどった。73年、年間純利益は50億ウォンを突破した。6年で所得は10倍に増えた。
所得の増加は、みかんブームや在日韓国人の苗木寄贈だけの結果ではない。在日韓国人は当時、どうすればみかん栽培が安定した収入源として根付くか、みかん栽培の段階ごとに対策を講じた。
初めはみかん栽培の普及に力を注いだが、徐々に技術指導や農機の導入、新種の開発などにも努力した。総合的なサポートで、済州道民の自立を模索しようとしたのだ。
在日済州開発協会は、済州の若手みかん栽培農家を日本に招き、農業研修を行わせた。研修に参加した若者は、1965年の10人を皮切りに、数百人に上った。
「研修費は会員たちの寄付でまかなった。もしその時土地を買い、ビルを建てていたら、すぐにでも大きな収入源になったはず。でも、基本的な技術向上を支援する方が、長い目で見ればもっと故郷の発展に貢献できると信じた」(高ボン準・元在日済州開発協会会長)
研修生を招く過程では、ハプニングもあった。静岡県内のある短大に働きかけ、韓国人留学生にみかん栽培を学んでもらおうとした時だった。4月の入学式、1人の研修生も現れなかった。
韓国内での行政手続きが遅れ、研修生が日本に入国できなかったためだ。留学生は3カ月遅れて7月、日本に到着した。
当時の関係者は在日済州道民会30年史でこう証言した。
「研修生の募集は、一人でも多くの若者に日本の技術を学んでほしい一心でやったのに、本国の官僚たちの理解が不足していた。今考えても残念な出来事だった」
日本からみかんの専門家を招いて技術指導を行った時も、トラブルは発生した。
在日済州開発協会は1969年10月、日本人のみかん専門家たちとともに、済州のみかん農場を巡回し、技術指導を行った。そのとき、現地の農家から「どうして木を殺そうとするのか」という強い抗議を受けた。
不要な枝を切り落とすとみかんが丈夫になると説明したが、農家は聞く耳を持たなかった。今では誰もが知っている「剪定」を、当時は誰も知らなかった。
在日韓国人は、農薬の噴霧機やトラクター、除草機といった農機の普及にも貢献した。
1964年頃、済州にあった農機は、トラクター2台だけだったという記録が残っている。
70年までに在日済州開発協会が済州に持ち込んだ農機は、140台を超えた。
在日韓国人はその後数十年間、さらに味と質のよいみかんを作るため、技術者の派遣や、新品種の苗木提供を、惜しまずに続けている。
(了) |