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新しいソウルを見た
広大なアスファルト広場に余裕と遊び心
私設美術館で李朝の小物類を撮影していた。館長は、裁縫道具・眼鏡入れ・物差しなどを撮影台に並べていく。
どれも華やかな色彩を保ち、細工も凝っている。本来ならば技の押しつけとなるのだが、よく見ると連続する絵柄はところどころ左右にずれ、この歪な仕上がりは一見素人くさく見えてしまう。だがこれは、技を排除した達人の仕事かもしれない!
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汝矣島広場 ソウル 1990年 |
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李朝時代の物差し類は、水牛の骨に螺鈿(らでん)の華角貼りと、なかなか美しいものであった。だが寸を表す目盛りは半分で終わり、後は飾りとしての草花であったり、魚図・北斗七星などが刻みこまれていた。
これで用がたせるのか、と思いながら裏返すと、そこには目盛りの続きがあった。それは物差しを回転させながら、図柄を楽しみ寸を計っていくというからくりなのか? なんと韓くにの人たちは、物差しにまで遊び心を忘れず工夫しているのであった。そのことは、どの物差しにも通じていた。
これまで多くの李朝作品群に出会った。そのなかでも日本民藝館所蔵の「白磁おろし皿」は印象深い。それはニンニクのような小ぶりな野菜をおろす道具なのか。基本形は円である。浅く平坦にえぐられた中心部に、四角い隆起部分があり、無造作な網目の切り込みがあった。そして上部には角のような渦巻き形取手が付いている。その形体は動物の顔を印象づける。そこには研ぎ澄まされた形から息づいた、工人の遊び心が見え隠れする。
以前、京都の陶芸家が作った白磁の「おろし皿」を貰った。その手本は李朝だと言われた。彼は「灰皿として使ってください」とつけくわえた。あの「白磁おろし皿」と似ていたが、どこかが違っていた。
秀吉の文禄の役(1592)のあと、日本に連れてこられた韓くにの工人たち。彼らが作った白磁の白は、日本人には不吉さを連想させる色だった。その印象を薄めるため紋様や彫りを施した、とその作家は説明してくれた。
彼は李朝の白磁に魅了され、その世界に精通しているが、李朝の白磁より上手な肌合いには、物をおろすという用としての鋭さが消え、灰皿になってしまうのか! 日本人には李朝の美しさを頭で理解できても、いざ作品となると表現が難しいようだ。
80年代後半、雑誌の表紙撮影で汝矣島(ヨイド)広場まで行った。地下鉄4号線、2号線と乗り換えて合井駅を過ぎた辺りから、地下鉄は地上を走る。
遠くかなたにノッポビル「63タワー」が陽に照らされていた。後方には国会議事堂が見える。雄大な漢江が広がり高層ビル群が立ち並んでいた。堂山駅で降りて汝矣島広場まで歩くことにした。かつて飛行場だったこの広場では、ローラースケートや自転車を気ままに乗り回す子供たちがいた。
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ふじもと たくみ
1949年、島根県に生まれる。19歳から韓国の風土と人々を撮り続ける。78、79年銀座ニコンサロンで個展開催。95年、映画監督パゾリーニの故郷カルザス(イタリア)で「パゾリーニの足跡をたどる13人の写真家たち」の招待作家として「韓くにの風と人」展を開く。著書に『韓くに風と人』ほか3部作(フィルムアート社)、『韓くに風の旅』(筑摩書房)、鶴見俊輔との共著『風韻 日本人として』(フィルムアート社)、『韓くに、風と人の記録』(フィルムアート社)など。87年度「咲くやこの花賞」受賞。 |
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貸しローラースケート靴屋のアジュマは大きなお尻を振り振り屈みながら、レンタル用靴を並べている。
それまで己の写真として、新しい街の風景には興味がなかった。韓くにの原初的な美が存在しないものだと思い込んでいた。ところが、この広大なアスファルト広場に高層ビル、そして手前に整列されていくローラースケートの靴群を対比して見ているうちに、近代化を成し遂げたソウルの風景を描こうと思いたった。
掲載した写真の構図は、靴の配列を強調するため超広角レンズを使用。できるだけ屈み撮影をした。
この写真は、自ら構図を演出したのではない。アジュマの靴の並べ方のセンスの良さに助けられたところが大きい。アジュマはドミノゲームのように根気よく、少しぐらいの歪みも気にしないで黙々と置いていく。団体客が来ないかぎり、不必要な靴の数。だがアジュマは並べていた。
客がいなくても悠々として動じることもなさそうな顔で、椅子に腰掛けている。アジュマは、花柄模様に色弱検査柄のような色合いの服を着ていた。彼女のセンスは美的感覚に優れているようには思えない。
大量のローラースケート靴。それまで無機質だった汝矣島広場の画像が、アジュマの靴の配列を入れることで、物差しとか白磁に通じる洒落っけが芽生え、私の写真に韓くにの風穴を開けてくれたような気がした。
「韓くにの人たちは、日本の人たちと違って、一分一里の寸の誤差ぐらい気にしないで、目で楽しむおおらかな世界を大切にした」
とあのとき話された、私設美術館館長の言葉が蘇ってきた。
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