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政治
2007年7月4日発行版
 
延辺情話第3部−4−  間島パルチザンの末裔たち
 

虹口公園事件  反日青年が投げた爆弾

 上海事変は、関東軍による満州事変と満州国建国に対する欧米列強の警戒心を満州の外にそらせることが狙いだったといわれる。
 蒋介石が、徹底抗戦を唱える19路軍を福建に追い払ってまで日本軍との停戦交渉に持ち込んだのも、日本の目論みを砕こうとする考えであったのかもしれない。

会場の警備は厳重だったが
 
   

 停戦交渉中の4月29日、虹口公園では天長節祝賀会と大観兵式を兼ねた行事が行われた。
 会場には、上海派遣軍司令官・白川義則(大将)、上海日本人居留民団行政委員長・河端貞次、第9師団長・植田鎌吉(中将)、第3艦隊司令長官・野村吉三郎(中将)、在上海公使・重光葵らが列席していた。
 李華林は生きて帰らないつもりだった。尹奉吉と共に標的に近づいたという。
    ◇
 日本人租界地だったとはいえ、中国で天長節を大々的に祝うなどもってのほかだと中国人は思っていました。それに停戦交渉中であったから、中国国内の反日感情は強まっていました。虹口公園の会場付近の警備は厳重を極めていました。
 私たちは日本人夫婦を装い、日本人居留民の列に紛れ込みました。尹奉吉の手には爆弾を入れた水筒がありました。検問が行われていました。私は、英語は平気でしたが、日本語は苦手でした。尹奉吉は日本軍の検問の厳しさを見て、私を外し、一人で中に入っていきました。
   ◇
 式典が続いていた午前11時40分、礼砲が鳴り、君が代が斉唱されていた。歌が「さざれ石の…」という件にさしかかったときのことである。尹奉吉は水筒を演壇めがけて投げつけた。轟音と共に、壇上に居並ぶ要人たちはなぎ倒された。
 河端貞次即死、白川義則後に死亡、植田鎌吉、野村吉三郎、重光葵らは重傷を負った。重光は右足を失い、野村は片目を失った。
 一場は騒然とする中、「大韓独立万歳」と叫ぶ朝鮮語を聞いた。尹奉吉は叫びながら自殺を図ったが、その場に取り押さえられた。
   ◇
 事件発生後、けが人はすぐに何カ所かの病院に運ばれました。重光と河端たちは北四川路の福民医院に移送されました。私は“戦果”を確かめるため、この病院を張り、情報を収集せよという命を受けました。
 病院の中のうめき声はとぎれることがありませんでした。河端は2日間うめき続けて絶命しました。重光は、大腿部の部位がほとんどまともでなかったといいます。福民医院の頓宮博士と主治医の海軍少佐川口某もどうすることもできないほど、傷は全身に及んでいたようです。ですが、重光は片足を切断して一命を助けられました。
   ◇
 終戦後、戦艦ミズーリーでの日本の降伏調印式に臨む重光葵の、ステッキを手に足をひきずる姿は印象的なシーンだ。その跛行が虹口公園事件で被弾したものであることは案外知られていない。
 尹奉吉は事件後の12月19日、金沢刑務所で銃殺刑に処された。金九はロイター通信に犯行声明を伝えて数日後、上海を離脱した。
(文化部・仲田功)

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