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2007年7月4日発行版
 
韓国大統領とファーストレディ  李承晩 フランチェスカ・ドナ(下)
黄民基
 
 

亡命生活支えた糟糠の妻  
「自分ほど幸せなファーストレディはいないだろう」

 李承晩はジュネーブで活動中の1933年2月、フランチェスカ・ドナと偶然出会い、翌年、かのじょを妻にする。還暦前であった。
 新婦はふたまわり以上若い。

つかの間の余暇を楽しむ李承晩大統領夫妻(慶尚北道栄州市の浮石寺にて、1957年)  
   

 「娘を連れ去ろうとしているこの男はいったい何者か? アジアの何れの国の者ともしれぬ、年老いた男という以外にどのような説明がつくというのか?」
 フランチェスカの父が、その男と娘の結婚に同意するはずはなかった。
 ドナ家は跡取り息子がおらず、未婚のフランチェスカに家業を継がせようとしていた。父は二重のショックをうけた。
 当然、ドナ家は李承晩の志など理解する気持ちにはなれず、それを断固として拒否した。李承晩は、独立運動のためドナ家の財産に目をつけているのだと、忠告する者がいた。
 ドナ家の財政支援はなかった。もっとも娘婿はそれを当てにしたわけではない。李承晩は心底、フランチェスカに惚れていたのだと、後に李承晩の政治顧問となるロバート・オリバーは語っている。
 李承晩の在米の同志たちも「碧眼の異邦人」に拒否感をつのらせた。公式行事の場にフランチェスカを伴わぬよう李承晩に申し入れる者さえいた。
 李承晩は委細かまわず、あるときは誇らしげに、あるときは細やかな気遣いを見せながら、どこへでも颯爽とフランチェスカを連れ歩いた。当時の朝鮮人としては、あるまじき振る舞いである。かれはしかも、民族運動の指導的立場にあった。在米同志たちの目には李承晩の振る舞いは奇行と映った。
 欧米では麗しい光景であり、まさに教養ある紳士の姿であった。
 ついでながら、李承晩とよくオーバーラップされるひとりのアジアのリーダーがいる。蒋介石である。ふたりをアメリカのリベラル派は「相似形」と揶揄したことがある。実際に、かれらは盟友であったし、執権後の統治スタイルはよく似ていた。蒋介石は訓政を敷いたし、李承晩は「真正ブルボン派」と、民主派からあだ名を付けられるほど憲政をないがしろにした。西洋人の目には愚民政策と映った。
 ふたりは共に国を追われもした。それでも、かれらはアメリカ政府にとってアジアでもっとも大事な友人であった。「反共ヒーロー」のモデルであったからだ。
 ところが、蒋介石はアメリカ人にそれほど人気はなかった。アメリカの支援をうけ、圧倒的な軍事力を有しながら毛沢東に敗れたということもあったが、それ以上に、かれの女性観と結婚生活のありようが不人気を招くこととなった。
 蒋介石は3度結婚し、2度離婚した。内縁の相手を入れれば、「妻」と呼ばれたかれの女性はもっといる。最後の結婚は、中国屈指の富豪、宋財閥の三女宋美齢と結ばれたいがためであった。
 宋美齢もまた、権力をこよなく愛した。蒋介石とかのじょの結びつきは「カネと権力の結婚」と言われた。それはそれで、誰はばかることなく堂に入っていた。伝統的に実用主義的な風土を持つ中国では、政略結婚は常なることで、さほど醜聞とはならない。欧米人の目にはおぞましく見えた。
 当然のことながら、ふたりのファースト・レディも折に付け比べられた。
 政略結婚のイニシアチブをとった宋美齢は、政治の面でもよく口を出した。アメリカ留学と社交界での経験を生かして、アメリカの対中支援を引き出したし、「カイロ会談」では、ルーズベルト、チャーチルを相手にして、蒋介石よりも目立ったものである。それでいて、国共内戦がクライマックスを迎えた頃は、夫を置いて単身アメリカへと避身し、米高官たちと浮き名を流しもした。
 一方、フランチェスカは、李承晩とのつましい亡命生活をきりつめて、よくしのいだ。
 解放後、大統領夫人となってからも、すべてに控えめで、内助の功を見せて夫を支えた。
 その献身ぶりは、伝統的な儒教風土で育った韓国女性もかなわぬほど感動的であったと、ロバート・オリバーは語っている。
 世に独裁者といわれた権力者の妻たちの中で賢夫人をさがすのはむつかしい。チャウシェスクのエレナ、マルコスのイメルダ、毛沢東の江青。いずれも「悪妻」の名をほしいままにした。フランチェスカの例は希有である。
 李承晩も解放後は、独裁者と呼ばれたが、欧米では意外なほど醜名を残してはいない。すくなくとも、蒋介石よりはソフトなイメージをもたれた。フランチェスカの存在が、かれの印象を和らげたのだといわれている。
 李承晩にとって、フランチェスカは糟糠の妻であった。
 フランチェスカはのちに、「自分ほど波瀾万丈で、幸せなファースト・レディはいなかったでしょう」と、自伝でふりかえっている。
 アメリカの各紙は亡命時代の李承晩を好もしく書いた。「きゃしゃな体に白いスーツを着、微笑を湛えた李承晩氏は、ニューヨークで韓国と中国国民の世論を喚起したあと、ワシントンに到着した」(デイリー・ニュース)、「決起した抗日闘士、李承晩が太平洋を越え未知の目標に向かって一路邁進している」(クロニクル)。
 大袈裟な報じようであるが、それだけかれの活動が華やかであったことがわかる。数々の活動記録からは、他の亡命者たちが味わったような苦痛の表情はうかがえない。
 学識、教養、家柄、さらには国際舞台での華々しい活躍。李承晩を独立運動のスターダムへと押し上げる要素はふんだんにあった。
 「かれの亡命生活は満ち足りていた。これはとても不幸なことだが、かれの苦痛は解放後に始まった」ロバート・オリバーは語っている。
 李承晩は1960年、「4月学生革命」によって倒された。学生たちは「四反理念」(反独裁、反封建、反外勢、反買弁)を掲げた。学生たちの目に、李承晩は、独裁、封建、アメリカ依存、外国資本依存のすべてをやった政権として映ったことになる。
 4月革命のさなか、李承晩はハワイに亡命、5年後の65年7月、90年の生涯を閉じた。フランチェスカは、夫の棺と共にソウルに戻り、92年、97歳で亡くなった。


 ファン ミンギ   ノンフィクション作家。1948年生まれ。長く東欧報道に携わる傍ら、翻訳、映画評論なども手がける。著書に『只今戦争始め候』(洋泉社)『奴らが哭く前に』(筑摩書房)『「ならず者国家」はなぜ生き残ったのか』(洋泉社刊 7月20日発売予定)

通信士の食材  百味もこれに及ばず
 「信使通筋覚書朝鮮人好物の写」の「獣肉」の項目にある「肋」(アバラ)の件ではこうある(口語訳)。
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