| 李承晩 フランチェスカ・ドナ −上−
ウィーンで出会ったドナ 皇帝の密書携え 渡米
李承晩のアメリカへの関わりは長く、深い。朝鮮朝最後の皇帝となった高宗が、帝位とともにまだ存命しえたころ、王命によって渡米したのがきっかけである。
このおかげで李承晩はその年、1904年8月、ソウル西大門刑務所を出ることができた。特赦であった。
かれの投獄は、廃帝を企図する陰謀組織に加担したためとされた。冤罪であったといわれるが、しかし、「陰謀組織」とされた政治結社「独立協会」は、共和制を標榜して一世を風靡した。皇帝に抗命する国政改革派の組織であったことは確かだ。建陽元年(1897)の記録『韓国季年史』に、独立協会の弾圧をみとめる高宗の勅諭が載っている。
「其始也曰忠曰愛末嘗不善、而終也曰悖曰乱無所逃其名、疑懼之所由生也」
(最初は忠君愛国を云々したが、やがて叛乱グループになりはてた)という怒りの言葉である。
李承晩は結社の中心メンバーであったから、いずれにせよ重罪は免れないところであった。
その李承晩にルーズベルトへの密書を託さねばならないほど、高宗は宮中で孤立していた。黄昏の王朝にあって独り日本への抵抗をこころみる国王に、人民は憐憫の情をむけた。宮廷と政府にかれを愛おしむ者はなく、それどころか、重臣や官僚たちは忍び寄る日本の影におびえた。国王を陥れるための謀略はいたるところに張り巡らされていた。
密使遣米の一挙は、秘めねばならなかった。
李承晩は後年のかれからは想像しがたいほどに、当時、民権主義者として名を馳せていた。このことを除けば、「皇帝の密使」としては適任であったといえる。かれは英語に堪能である。憂国の情では人後に落ちぬことでも知られている。
少壮期、明成皇后(閔妃)が暗殺されたときは、日本への報復を企て、指名手配をうけたという旨のことを高宗は言っている。それに、王室に繋がる門閥であったということも密使遣米への安心材料でもあった。
李承晩は李氏朝鮮の系譜を引く名門中の名門に生まれた。李朝第3代の王・太宗の子、譲寧大君(4代世宗大王の兄)から数えて17代目の直系にあたる。それも6代続いての独子(一人息子)であったから、一族の寵愛を一身にうけたであろうことはまちがいない。そうしたせいか、独立運動に投身して以後も、平民出身の活動家が簇生するなかで素性の良さをどことなくとどめていた。
高宗が李承晩に命じたのは、当時、「韓米友好条約」に明記されていた「相互防衛」条項の発動をルーズベルトに懇請することであった。渡米は1904年11月のことである。
翌5年には、日米間で、アメリカのフィリピン統治と日本の朝鮮支配を相互承認する「桂・タフト協定」が結ばれている。李承晩はこの密約に気づかぬまま滞米中に、「高宗毒殺」のルーマーと、「血の三月」(3・1独立運動)の報に接した。
高宗は、李承晩を遣米して3年後、オランダ・ハーグの万国平和会議にも3人の密使を送っている。日本が朝鮮に強要した「保護条約」(1905年)の無効を訴えるためだった。3人の密使は、日本の命を受けた親日派フィクサー、宋秉oの放った刺客をかわし、なんとかハーグにたどり着くものの、会議への訴状はにべもなく拒絶された。「朝鮮に外交権はない」という理由であった。
ハーグ密使のひとりに、李承晩の盟友、李儁がいた。李儁は朝鮮に戻らず、ハーグで憤死した。世にいう「ハーグ密使事件」の余波は、韓国の宮廷にも及んだ。高宗は日本の逆鱗に触れ退位させられ、12年におよぶ幽閉生活の末、徳寿宮で非業の死を遂げる。
李承晩は幸運であったというべきであろう。「ハーグ密使」たちの受けた惨さを味わわずに済んだ。
ルーズベルトは老獪であった。件の「桂・タフト覚書」を追認しながら、一方で李承晩の口上を聞くだけは聞き、可能なかぎり活動上の便宜をはかりもした。アメリカにはたしかに自由主義はたっぷりとあった。それまで朝鮮にあまり興味を示さずにいたアメリカのマスコミは、初めに「皇帝の密使」という物珍しさも手伝ってか、かれの紹介にわりと大きく紙面をさいた。『ニューヨーク・トリビューン』は、ルーズベルトに独立誓願書を手渡す李承晩を写真入りで伝え、『ワシントン・ポスト』は、日本を糾弾する李承晩のインタビュー記事を賑々しく載せた。やがて欧州にまで、かれの評判は轟いた。李承晩は欧州に赴き、ロンドン、パリ、ローマ、ジュネーブを回り、ウィーンに入った。生涯の妻となるフランチェスカ・ドナがそこにいた…。
黄民基ファン ミンギ ノンフィクション作家。1948年生まれ。長く東欧報道に携わる傍ら、翻訳、映画評論なども手がける。著書に『只今戦争始め候』(洋泉社)『奴らが哭く前に』(筑摩書房)など。 |