| 開城談話 朝鮮戦争
降りしきる雪 モスクワを訪れた北朝鮮訪ソ団 金日成、朴憲永の目的は何か
金日成 「ソ連邦の援助を」
スターリン「南侵は認めない」
1949年の冬。ウラジオストックを発った10両編成の特別列車が、一路モスクワを目指し走り続けていた。北朝鮮の戦後初のソビエト訪問団を乗せた外交列車だった。
モスクワ・ヤロスラヴリ駅に入ったのは3月3日だった。午後2時をすこし過ぎていた。駅前ではすでに分厚い防寒コートに身を包んだソ連軍兵士らが整列している。党、政府の幹部たちも来ているようである。まるで装甲車のようなソ連製最高級車「ジル」が辺りを払うように何台も停められてあった。
ミコヤン(党政治局員)、グロムイコ(外務次官)らソビエト側要人の出迎えを受けたのは、金日成(首相・北朝鮮労働党)、朴憲永(副首相・南朝鮮労働党)、洪命熹(副首相・民主独立党)、鄭準澤(国家計画委員会委員長・北朝鮮労働党)、張時雨(商業相・北朝鮮労働党)、白南雲(教育相・勤労民主党)、金延柱(通信相・青友党)、文日(通訳官)の8人である。各党派、勢力がほぼ網羅されていた。
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モスクワのヤロスラヴリ駅に下り立ちソ連軍を閲兵する金日成一行。前列左から金日成、ミコヤン、グロムイコ、朴憲永 |
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不可解であったのは、「延安派」と称せられる北朝鮮最大の政治勢力に連なる閣僚たちが、ひとりも一行に加わっていないことであった。今次の訪ソの意味に何事か重大事が秘められていることを暗示していた。「延安派」はこのとき、「南北協商」を唱えて南朝鮮への軍事対決姿勢を強める金日成に対し、密かに圧力をかけていた。「延安派外し」の訪ソの意図を、ソビエト側は気づかぬままであった。
訪ソ団一行は駅前での歓迎セレモニーを終えると、ミコヤンの先導で「ジル」を連ねクレムリンへと向かった。金日成と朴憲永をのぞいては初めて目にする「世界革命」の聖地である。
宮殿に入るには、城塞入り口のクタフィヤ塔からトロイツキー橋を渡るのが慣例となっている。ここがクレムリンであることを、彼らが最初に実感させられたのは、入城門であるトロイツカヤ塔の上に輝くルビーの星を目にしたときであった。モスクワ市民は、この星が700万人の犠牲者を生んだ「大テロル」の年(1937年)に取り付けられたことを脳裏に刻みこんでいたが、今のところそれは、国際主義の表徴であり、世界の被搾取階級を解放する「教導の星」であるということ以外にいかなる意味合いも持ち得なかった。
戦後、幾度となくトロイツカヤ塔門をくぐった各国共産党指導者たちも、初めは皆、尖塔の80メートルの高さに取り付けられたルビーの星を車の中からのけぞるように見上げながら城塞の奥へと入って行ったものだ。西側ジャーナリストたちはその光景を揶揄して、いつしか「クレムリン詣で」と呼ぶようになった。チャーチルに言わせれば、「赤色蛮人」の群れる、おぞましき眺めである。47年7月、チェコスロバキア首相クレメント・ゴットヴァルトが訪れた後は、直前まで米国のマーシャル計画に従う腹を固めていたチェコ政府が一転してそれを撤回した。その1年後にはプラハで共産党によるクーデターが起きている。東欧圏でモスクワの信任を最も厚くしていたポーランド労働者党政治局員ボレスワフ・ビェルートが突然、クレムリンに呼びつけられた際(48年5月)には、同党の民族派書記長ウラディスワフ・ゴムウカの失脚が囁かれ、じじつ3カ月後にはその通りとなった。
クレムリンという共産主義者たちの外交舞台でいかなる政治儀式が行われるのか、2度目のクレムリン詣でとなる金日成と朴憲永は身にしみて分かっていただろう。
2人は3年前(46年7月)、極秘裏にスターリンの面接を受けたことがある。このとき、弱冠33歳の金日成は革命家としての履歴が短く(というより、履歴自体に疑問が向けられていた)、ソ連軍政によって辛うじて支えられていた。出自不明のいかがわしい人物と、古参活動家たちが見たのは、さほど的外れのことではなかった。
解放の年、45歳であった朴憲永は朝鮮共産党創立時(1925年)からのオールドボルシェビストで、名実共に朝鮮共産主義の第一人者だと言ってよかった。輿望を集めたのは明らかに朴憲永である。
その2人を前におき、スターリンは出し抜けに金日成を北朝鮮権力の最高指導者に指名した。朴憲永のみならず、朝鮮共産主義者たちにとっては青天の霹靂であった。以来、彼らの相克は北朝鮮の苦悩と共に深まった。
金日成一行がヤロスラヴリ駅でソ連軍を閲兵するときのようすを捉えた写真が1枚だけ残っている。笑みを湛える金日成とは対照的に、心なし顔をこわばらせる朴憲永の表情がとりわけ印象深い。
およそ3年ぶりにクレムリンへと向かう金日成と朴憲永は、降りしきる雪の中に浮かびあがる宮殿の金色と極彩色のキューポラをひそかな感慨をもって眺めただろう。
2人は今、共通の目的を秘めていた。
金日成がスターリンとの会談に臨んだのはモスクワ入りして3日目の3月5日夜8時である。訪問団全員と、平壌から随行した北朝鮮駐在ソ連大使シュトイコフ、ソビエト政府外相ヴィシンスキーが陪席した。ロシア側秘密外交文書(ロシア連邦大統領文書保管所・ロシア外務部外交政策文書保管)によると、会談は1時間15分にわたって行われている。
事前に確認された協議の中身は、「経済協力及び貿易拡大に関する協定締結」など、経済問題を主な柱としており、スターリンもそれとして了解していた。協議が順調に中ほどまで進んだときであった。金日成は、ところで…と、タイミングを見計らったように話題を変え、
「朝鮮の南半部にはまだアメリカの軍隊がいて、共和国(北朝鮮)に対して反動の策動を強めています。彼らは地上軍をこそ持っているが、海上防衛はほとんど形無しです。この点でソビエト連邦の援助を頼みたいのですが……」
おもむろに切り出した。
海軍力1つのことではなく、武力統一そのものへの意思をこめたシグナルであったことは、居合わせた全員に即座に伝わった。会談のもようを認めたシュトイコフ・メモには「南北統一の方途及び方法に関し、武力行使による統一を実施しようとする雰囲気」とある。
スターリンは冗談まじりに返した。「あなたたちは、彼らが怖いのか?」
開戦は金日成の意思 スターリン「助ける用意はある」
金日成が答えた。「いいえ、怖くはありません。しかし、海上戦闘力はぜひ必要なのです」
スターリンはもう一度、からかうように尋ねている。
「どちらの軍隊が強いのか? 北か? 南か?」
今度は朴憲永が答えた。「もちろん、北側が強いのに決まっています」
スターリンは次第に真顔になったという。
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スターリンから北朝鮮指導者として指名された1ヵ月後の46年8月28日、「北朝鮮労働党」の結成を宣言する金日成。バックのスターリンの肖像が印象的である。 |
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もとよりスターリンには、チャーチルから「国際的共産組織の膨張する伝道的傾向をくい止める術はない」(フルトン演説)と過剰?に反応されるほど、世界革命を視野に入れる余裕も度量もあったわけではない。というより思想性として疾うに失せていた。戦後間もなく中国・満州、イランから手を引いたのも、米英の対ソ強硬論の高まりを抑えたいがためで、見方を変えれば、現支配地域でつくりあげた既成事実(鉄のカーテン)だけは認めてくれ、と言っているようなものであった。
相手はトルーマンである。トルーマンはルーズベルトのそれまでの対ソ柔軟政策をひにくるように、「ソ連を甘やかすことには飽きた」と早くから吹いてまわっていた。ルーズベルトとは、理想家と現実主義者、リベラリズムとアンチ・コミュニズムといった肌合いの違いを際だたせたが、2人の対ソ政策における軟と硬を決定的に分けたものは原子爆弾だった。戦後処理をめぐって虚々実々の駆け引きが行われていたポツダム会談の席上、ニューメシキコ・アラマゴルドで原爆実験が成功したとの報せを密かに受けて、トルーマンのスターリンに対する態度が一変し、以後、トルーマンを苦手とするスターリンの「アメリカ・コンプレックス」が始まったというのはあまりに有名な話である。
スターリンはしばらくうつむくポーズを見せたかと思うと、やおら顔を上げ、「北側には日本人の残した造船所はないのか?」と尋ねた。金日成は「ない」と答えた。すると、スターリンはこう言うのである。
「だったらそれを援助しようではないか。それと…朝鮮は軍用機を持つ必要がある」
これがスターリンの示したすべての答えだった。
金日成はしかし、会談終了後、あきらめきれぬように、再度シュトイコフを通じてスターリンの理解を求めたようだ。スターリンは「軍事的に絶対の優勢を確保できない限り進攻は許可できない。武力攻撃が許されるのは李承晩の北進に反攻する場合のみだ」と、語気を強めて言明している。
金日成たちのモスクワ訪問は、結局、ソビエトから2億1200万ルーブル(3000万ドル)の借款を取り付けただけで終わった。
午後9時30分。モスクワ市内は、スターリン生誕70年を飾るための建築物の工事音も、ラウドスピーカーががなり立てていた「スターリンカンタータ」の歌声も止みシンと静まり返っていた。モスクワ特有の深い藍色の夜空に、トロイツカヤの星だけが、独り濃紅色の彩りを帯びてきらめいている。いつもなら「クレムリン詣で」が行われるたびに秘密会談の中身を探ろうと躍起になるモスクワ駐在外信記者たちも、この日ばかりはほとんど無関心の体でナリをひそめた。北朝鮮のソ連公式訪問のようすを伝えた外電は一本もなかったのである。
だが、この日を境にスターリンの北朝鮮を見る目は確実に変わったといわれる。金日成が東欧の指導者たちよりも、はるかにしたたかで、自我の強い人物であること、それになりより、世界にとって最も危険な男になろうとしていることをスターリンは感じ始めていた。
だが、1年後、金日成の南侵の熱意に折れ、開戦を許可することになろうとは、スターリンはこの時、まだつゆほども思っていなかった。
1950年1月30日
スターリンから平壌のシュトイコフへの極秘電
極秘
シュトイコフへ
金日成の不満はわかるが、南朝鮮に対する大事は周到な準備が必要であるということを理解せねばならない。行き過ぎた冒険は控えるべきだと考える。しかし、金日成がこのことで私と話し合いたいというのなら、私はいつでも彼と会ってこの問題を論議する心づもりである。このことを10分、同志金日成に伝え、私がこの問題で彼を助ける用意があることを知らせてもらいたい。
スターリン
ファン・ミンギ ノンフィクション作家。1948年大阪生まれ。長く東欧・北朝鮮報道に携わる傍ら、翻訳、映画評論なども手がける。著書に『唯今戦争始め候。明治10年のスクープ合戦』(洋泉社)『奴らが哭くまえに』(筑摩書房)『金日成調書』(光文社)など。
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